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青磁社の週刊時評に書いた
私の「ご都合主義的言語観」について、
みなさまから、いろいろ、ご意見を頂いています。
私は、1998年の「短歌研究」2月号の時評に、
次のような文章を書いています。
今回の件とふかい関係がありますので、
長いですが、お読みいただければ幸いです。
私の主旨は、この長い文章の方に、よく表れていると思います。
…………………………
試金石としての「たいらし調」
「短歌研究」12月号の目玉は何といっても、塚本・馬場・岡井・佐佐木・高野の五氏による「1997年歌壇展望」の座談会であろう。この座談会では、若い歌人たちの「文語と口語の混用」が話題となっている。
●「器用な人たちがそろっているから、どうしても主流は口語と文語の混ざり合ったスタイルになってるということはあるのね。わたしみたいなのもやっているんだもの。」(馬場あき子)
●「口語だけで短歌を作ろうとすると、57577に合わせにくいということがありますよね。(略)そういうときに『行きにけり』と文語を使えばいいんですよというふうに教えるんですけども、学生は文語を自分で使うのは馴れてないみたいです。俵さんも、このように文語と口語を混ぜて使っているから、君たちもやりなさい、としきりに奨めているんですけどね。」(高野公彦)
●「各時代時代で、口語的なものを生かしてきたんだから、近代文語というのも、あまりひどくないものだったら、いいんじゃないかというのが彼(大辻注・安田純生)の意見ですよね。僕も、学者がそう言うから、そうかなとも思わんでもないし。」(岡井隆)
塚本邦雄を例外として、出席者のほとんどは、しぶしぶではあるが「文語と口語の混用」を容認しているように見受けられた。とりわけ、かつて新人賞の選考会議で文語と口語が混用を批判した高野公彦が、たとえ教育活動の中とはいえ、口語と文語の混用を奨励しているという事実は、私にはちょっとショッキングだった。
同号では、吉川宏志も「文語と口語の混用」問題を論じている。彼は「97年特集展望」の中で、「文語と口語の混用」を「今もっとも刺激的な問題」と言い、「文語と口語のせめぎ合いを積極的に利用する方が実戦的なのである」と自己の見解を披瀝している。
これらの発言を読みながら、私は一抹の危うさを感じた。彼らの発言に共通するのは「わたしみたなのもやっているんだもの(馬場)」「君たちもやりなさい(高野)」「実戦的(吉川)」という、濃厚な実作者意識である。彼らは総じて、歌を作る際の技巧の問題としてのみ、この問題を捉えようとしているような気がした。
しかしながら、現状は少々深刻なのだ。現在話題になっている「文語と口語の混用歌」は、『サラダ記念日』以降ここ十年隆盛を誇った口語短歌と、ある一点で、決定的に異なっていると私には思われる。
「父さん」とまだ呼ばぬからときどきは父であること忘れたいらし
前田康子『ねむそうな木』
眼にちから入れて寒雲見上げれば垂直に立つあやうさぞ知る
江戸雪『百合オイル』
ただ、これらの歌の「辞」(助詞・助動詞)の部分には、現代口語の文法体系と古語体系の文法体系が混在している。「たい」「見上げれば」といった現代の文法体系に則った部分と、「らし」「ぞ〜知る」といった古代の文法体系。時代的な差を持つその複数の文法体系が、一文の「辞」の部分において渾然一体となっている。
従来の口語の歌では、少なくとも「辞」の部分だけは、単一の文法体系に則って作られていた。また、一首の歌に口語文体と文語文体が共存しているにしても、たとえば「ひとしきりノルウェーの樹の香りあれベッドに足を垂れて ぼくたち」(加藤治郎)というように、上句・下句にそれぞれ文語・口語が振り分けられていた。一つの文の「辞」のなかで複数の文法体系が渾然一体となって使用されてはいなかった。したがって今の状況は、今までの口語の歌の位相をあきらかに超えている。小池光が言うように、今起こっている「文語と口語の混用」は、新たな「たいらし調」の発生なのだ。
たしかに岡井隆がいうように、近代短歌はその時々の口語を積極的に導入して生き延びてきた。「用語は、雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候」(子規)という雑食主義がその根底にあった。しかしながら、その子規でさえ「辞」は、万葉集の文体を用いたのである。そこには、「辞」さえしっかりしていれば「語」(自立語)は何を持ってきても構わない、という彼の信念があった。「雅語、俗語、漢語、洋語」といった雑多な名詞を自由自在に歌のなかに入れるために、「辞」は単一の文法体系であることが求められたのだ。「てにをは」だけは、単一の文法体系に則る……。様々な文法的な誤用はあったにせよ、近代短歌はこの最低限のルールに支えられて成立していたのだと思う。
おそらく「たいらし調」は、近代短歌が守ってきたその一線を、なし崩し的に溶解させるものなのだろう。口語短歌の単調さに食傷ぎみになっている実作者にとって、たしかに「たいらし調」は刺激的ではある。自作に取り入れてみたい、という食指が動くのかも知れない。しかしながら、だからといって、「文語と口語のせめぎ合いを積極的に利用する方が実戦的なのである」という意識で「たいらし調」を容認するのは無責任な態度だと思う。そこには歴史的な本質を見抜く洞察が欠けている。
同じ号のアンケートに「現代短歌は近代短歌の延長上にあると思いますか?否定としてあると思いますか?」という興味ぶかい設問がある。結果は、約8割弱の人が「現代短歌は近代短歌の延長上にある」と答えている。
この結果は、近代短歌の限界をうすうす感じながらも、それに代わる明確な枠組みを未だに見いだせない現代短歌の状況を反映していると思う。とすれば、私たちに必要になってくるのは、近代短歌という疲れた器をぎりぎりまで延命させながら、その一方で、新たな短歌の枠組みを求める、という複視眼的な視点だろう。常に微視的に実作に関わりながら、一方で短歌の状況に責任を持つ。その視点を持てない者は、刹那的な技巧主義に走るしかない。「たいらし調」を容認するか否かは、その両者を分かつ試金石なのだ。
………初出・「短歌研究」1998年2月号…………
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