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arukaさま

 投稿者:大辻隆弘  投稿日:2006年 9月19日(火)01時25分19秒
  ざっと拝読しました。

ありがとうございます。

日常語とはちがう「文語」の響きに引かれて
歌を始めたものとしては、
さびしい短歌界の現状ではあります。

仕方ない、といえばそれまでですが。
 
 

(無題)

 投稿者:aruka  投稿日:2006年 9月19日(火)01時16分55秒
   はじめまして。わりと最近、短歌に興味をもった者です。
大辻さんの「ご都合主義的言語観」に発する一連の書き込みに
興味をおぼえたので、自分なりの意見を書かせてもらいました。
下記のブログの9月18日付の「文語の興亡」の「2」の部分です。

http://sleepingarea.seesaa.net/

 コメントはして頂かなくて結構ですが、お報らせまで……。
 

劇団太陽族「だけど、ほらごらん」

 投稿者:大辻隆弘  投稿日:2006年 9月18日(月)23時11分47秒
  9月17日(土)三重県総合文化センター小ホール

太陽族主宰の岩崎正裕さんは三重県出身。
でも太陽族の公演は今回はじめてでした。

「老人介護」と「指定管理者制度」という
私自身はあまり知らない領域がモチーフとなっていたが、
内容は、じっくり描きこんだ人間群像劇。

実に濃厚な2時間でした。

小堀純さんとのアフタートークも楽しかったです。

最前列に陣取ってかぶりつきで見ましたが、
久しぶりにナマ演劇の毒っけをたっぷり吸い込んだのでした。
 

所感

 投稿者:大辻隆弘  投稿日:2006年 9月14日(木)23時51分0秒
  すべての言葉を、
「権力への意志」と考える人。

すべての歌を
人と人の間の「抑圧と被抑圧」
という観点からしか、
見つめることができない人。

そういう人に私の「言葉」は届くのか。

それを思うと、心底、さびしい気持ちになってしまう。
 

試金石としての「たいらし調」

 投稿者:大辻隆弘  投稿日:2006年 9月14日(木)00時26分39秒
  青磁社の週刊時評に書いた
私の「ご都合主義的言語観」について、
みなさまから、いろいろ、ご意見を頂いています。

私は、1998年の「短歌研究」2月号の時評に、
次のような文章を書いています。

今回の件とふかい関係がありますので、
長いですが、お読みいただければ幸いです。

私の主旨は、この長い文章の方に、よく表れていると思います。

…………………………

  試金石としての「たいらし調」

 「短歌研究」12月号の目玉は何といっても、塚本・馬場・岡井・佐佐木・高野の五氏による「1997年歌壇展望」の座談会であろう。この座談会では、若い歌人たちの「文語と口語の混用」が話題となっている。

●「器用な人たちがそろっているから、どうしても主流は口語と文語の混ざり合ったスタイルになってるということはあるのね。わたしみたいなのもやっているんだもの。」(馬場あき子)

●「口語だけで短歌を作ろうとすると、57577に合わせにくいということがありますよね。(略)そういうときに『行きにけり』と文語を使えばいいんですよというふうに教えるんですけども、学生は文語を自分で使うのは馴れてないみたいです。俵さんも、このように文語と口語を混ぜて使っているから、君たちもやりなさい、としきりに奨めているんですけどね。」(高野公彦)

●「各時代時代で、口語的なものを生かしてきたんだから、近代文語というのも、あまりひどくないものだったら、いいんじゃないかというのが彼(大辻注・安田純生)の意見ですよね。僕も、学者がそう言うから、そうかなとも思わんでもないし。」(岡井隆)

 塚本邦雄を例外として、出席者のほとんどは、しぶしぶではあるが「文語と口語の混用」を容認しているように見受けられた。とりわけ、かつて新人賞の選考会議で文語と口語が混用を批判した高野公彦が、たとえ教育活動の中とはいえ、口語と文語の混用を奨励しているという事実は、私にはちょっとショッキングだった。

 同号では、吉川宏志も「文語と口語の混用」問題を論じている。彼は「97年特集展望」の中で、「文語と口語の混用」を「今もっとも刺激的な問題」と言い、「文語と口語のせめぎ合いを積極的に利用する方が実戦的なのである」と自己の見解を披瀝している。

 これらの発言を読みながら、私は一抹の危うさを感じた。彼らの発言に共通するのは「わたしみたなのもやっているんだもの(馬場)」「君たちもやりなさい(高野)」「実戦的(吉川)」という、濃厚な実作者意識である。彼らは総じて、歌を作る際の技巧の問題としてのみ、この問題を捉えようとしているような気がした。

 しかしながら、現状は少々深刻なのだ。現在話題になっている「文語と口語の混用歌」は、『サラダ記念日』以降ここ十年隆盛を誇った口語短歌と、ある一点で、決定的に異なっていると私には思われる。

  「父さん」とまだ呼ばぬからときどきは父であること忘れたいらし
                    前田康子『ねむそうな木』
  眼にちから入れて寒雲見上げれば垂直に立つあやうさぞ知る
                      江戸雪『百合オイル』

 ただ、これらの歌の「辞」(助詞・助動詞)の部分には、現代口語の文法体系と古語体系の文法体系が混在している。「たい」「見上げれば」といった現代の文法体系に則った部分と、「らし」「ぞ~知る」といった古代の文法体系。時代的な差を持つその複数の文法体系が、一文の「辞」の部分において渾然一体となっている。

  従来の口語の歌では、少なくとも「辞」の部分だけは、単一の文法体系に則って作られていた。また、一首の歌に口語文体と文語文体が共存しているにしても、たとえば「ひとしきりノルウェーの樹の香りあれベッドに足を垂れて ぼくたち」(加藤治郎)というように、上句・下句にそれぞれ文語・口語が振り分けられていた。一つの文の「辞」のなかで複数の文法体系が渾然一体となって使用されてはいなかった。したがって今の状況は、今までの口語の歌の位相をあきらかに超えている。小池光が言うように、今起こっている「文語と口語の混用」は、新たな「たいらし調」の発生なのだ。

 たしかに岡井隆がいうように、近代短歌はその時々の口語を積極的に導入して生き延びてきた。「用語は、雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候」(子規)という雑食主義がその根底にあった。しかしながら、その子規でさえ「辞」は、万葉集の文体を用いたのである。そこには、「辞」さえしっかりしていれば「語」(自立語)は何を持ってきても構わない、という彼の信念があった。「雅語、俗語、漢語、洋語」といった雑多な名詞を自由自在に歌のなかに入れるために、「辞」は単一の文法体系であることが求められたのだ。「てにをは」だけは、単一の文法体系に則る……。様々な文法的な誤用はあったにせよ、近代短歌はこの最低限のルールに支えられて成立していたのだと思う。

 おそらく「たいらし調」は、近代短歌が守ってきたその一線を、なし崩し的に溶解させるものなのだろう。口語短歌の単調さに食傷ぎみになっている実作者にとって、たしかに「たいらし調」は刺激的ではある。自作に取り入れてみたい、という食指が動くのかも知れない。しかしながら、だからといって、「文語と口語のせめぎ合いを積極的に利用する方が実戦的なのである」という意識で「たいらし調」を容認するのは無責任な態度だと思う。そこには歴史的な本質を見抜く洞察が欠けている。

 同じ号のアンケートに「現代短歌は近代短歌の延長上にあると思いますか?否定としてあると思いますか?」という興味ぶかい設問がある。結果は、約8割弱の人が「現代短歌は近代短歌の延長上にある」と答えている。

 この結果は、近代短歌の限界をうすうす感じながらも、それに代わる明確な枠組みを未だに見いだせない現代短歌の状況を反映していると思う。とすれば、私たちに必要になってくるのは、近代短歌という疲れた器をぎりぎりまで延命させながら、その一方で、新たな短歌の枠組みを求める、という複視眼的な視点だろう。常に微視的に実作に関わりながら、一方で短歌の状況に責任を持つ。その視点を持てない者は、刹那的な技巧主義に走るしかない。「たいらし調」を容認するか否かは、その両者を分かつ試金石なのだ。

………初出・「短歌研究」1998年2月号…………
 

「〈日本人〉の境界」「〈民主〉と〈愛国〉」

 投稿者:大辻隆弘メール  投稿日:2006年 9月11日(月)10時43分53秒
  8日金曜日、京都の神楽岡歌会に行ったついでに、
三月書房へ。

短歌研究と、吉村睦人歌集「吹雪く尾根」(文庫)を買う。

さらに、小熊英二の本に目がいく。
「〈日本人〉の境界」と「〈民主〉と〈愛国〉」。

どちらもものすごい大冊。原稿用紙2000枚はかるく越す。
でも、ものすごくおもしろそう。

結局2冊とも買いました。全部で1万5000円。

三月書房のご主人さんと話す。
「いつまでも私の本、置いていただいてありがとうございます。」
「あ、大辻さん、ぼつぼつ出てますよ」
とのこと。

あと塚本さんの話やら、吉川さんの話やら、もりあがりました。

土日は風邪ぎみだったので家で静かに読書。
「〈日本人〉の境界」、あまりにおもしろく、2千枚の本を一気に読む。
こういう具体的な歴史的細部への視線が大切なのだ。
すぐに「〈民主〉と〈愛国〉」にとりかかる。

この小熊さんという学者は、若いけれど、
史料の「行間」が読める学者だと思う。

近代日本におけるナショナリズムの問題を考える際に、
この2冊は欠かせない本なのではないか。

じっくり読んで、考えよう。
 

西園寺さま

 投稿者:大辻隆弘  投稿日:2006年 9月 8日(金)00時01分32秒
  ご意見ありがとうございます。

私は拙作を「本歌どり」である、とはいっておりません。
「本歌どりととられても仕方がない」と言っております。

下にも書きましたように、自分の脳裏のなかに高野さんの歌
があったことは確かだ、といっているのです。

「いまやはらかに」の部分は、自分でも未だしの感があったまま
発表しました。
その部分は、自分でも弱みを感じているのです。

見解は、以下に示したとおりです。
よろしくご理解ください。
 

大口さま

 投稿者:大辻隆弘メール  投稿日:2006年 9月 7日(木)19時03分59秒
  わざわざ書き込んでいただき、ありがとうございます。

たしかに語感というのは個人差が大きいものですね。

私の場合、あの吉川さんの歌は、「行けるなり」のところで、
ガクっと力が抜けるような気がするのです。

なにか、アニメのコロ助の「そうなり…」という
言葉を聞いているようで……。

ほぼ10年前、「たいらし調」を巡る論争がありましたね。
あの問題は、私はまだ解決していないという感じがします。

今回の私の時評が、そこらへんの問題を考え直すきっかけになれば
と思っています。

hhttp://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_060710.html

 

文語体口語体

 投稿者:大口玲子  投稿日:2006年 9月 7日(木)14時19分43秒
  青磁社の週刊時評拝読しました。

大正15年に会津八一が書いた書簡より引用します。

自分の志を重しとし、其志の赴く方へ全力を用ゐらるれば急がずとも自分として行くべきところ行き得るところまでは行けるなり。

時代も違いますし、手紙の文と現代短歌を一列に論じられるものではありませんが、
「行けるなり」という表現が「グロテスク」というほどまでのものではないように思います。
私自身、拙文で「文語体口語体の混交の是非はおくとして」というエクスキューズを書いたのですが、
特集自体が文語体と口語体の混交を肯定する立場から作られていたと思います。
私の文章にも行き届かない点があったと思いますが、
大辻さんもお書きのように、「何をもって文語とし何をもって口語とするか」、
またその作品の是非については、時間をかけて考えるべき点があると私は思っています。
 

本歌取りについて

 投稿者:西園寺  投稿日:2006年 9月 6日(水)18時37分12秒
  大辻様
先日は大変失礼仕りました。またもや御邪魔させて頂きます。
加藤次郎氏の掲示板にて貴殿の歌に対する評を読みました。率直な感想と致しまして、あれが本歌取りと言い得るものであるのかどうかと、甚だ訝しく思った次第です。
ところが、当のご本人である大辻殿までが、加藤氏指摘するところの本歌取りとの批評に対して、まったく逆らいもせず、存外すんなりと受け入れてしまっているということに、さても面妖なこともあるものかと、更なる驚きを覚えた次第です。
貴殿は国語について専門家であらせられる由伺っているところでありますので、是非とも専門家として本歌取りとは如何なるものであり、今般指摘されたる両首が如何様に本歌取りの定義に当て嵌まるとのお考えであるのか、どうかはっきりしたところをお教え願い度く、図々しくも再び貴殿の掲示板に訪問仕った次第です。
何故斯様に小生が斯かる問題に対して、頼まれもせぬのに要らぬ首を突っ込むのかと申しますと、加藤氏の評がもし正しいと評価されるのであらば、これは歌の解釈に関して、一つの大きな誤った前例が確立されてしまうということを意味するからであり、それによって今後、多くの歌人が歌を詠む際に、無用の心配に自由を奪われてしまう恐れのあろうことや、歌がまったく謂われ無き批難を浴びるという事態が招来されることが、容易に想像され得るからなのであります。
小生は国語に関し、専門的知識を露ばかりも持ち合わせぬ門外漢ではありますが、本歌取りというのは、独特の調べを帯びて既成の陳腐な語句から際だった独特の存在のフレーズとなり得た語句を、そのまま自歌に拝借することや、本歌で歌われる歌境や趣向を借り受けて自歌に詠み込む様な場合を言うものではありますまいか。
貴殿の歌が本歌としてあげられる歌に対して、一体どのように考えたら本歌取りと考え得るのか、まったく以て不可思議としか申しようがありません。

今後歌の批評において、安易に謂われなき本歌取りなどとの揶揄、批評が横行するようなことのないよう。今般の問題につきましては、専門家がきっちりとしたけじめを付けるべきではなかろうかと思います。
小生思いますに、世の中に影響力を持つに至った御仁は、すべからくその言動を慎まなければならない筈であります。権威を帯びた者の影響というのは、当人が思う以上に知らぬうちに多大なる影響を世の衆人に広く与えるものであるからであります。
本来は加藤氏のところに書くべき事柄であったかもしれませんが、どうか先達たる歌人の方々に、小生の胸中に生じた煩悶を氷解させて頂きたい。
またしても唐突に御邪魔し大変御無礼仕りました。御容赦乞願度。 龍之信 拝
 

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